五月人形にはどのような種類があり、どのような背景があるのでしょうか?

五月人形には、鎧・兜・弓・太刀がセットになった鎧飾り、兜だけを飾る兜飾り、金太郎などの武者人形を飾る人形飾りの三種類があります。それぞれを歴史などを踏まえながら詳しく解説します。

鎧飾り

兜、鎧、弓矢、太刀がセットになった豪華な飾りが鎧飾りです。着用できるものも多いので、着せることを前提として選ぶのならばこのタイプがおすすめです。

五月人形で用いられる鎧は、「大鎧」(おおよろい)という種類のものが多いです。
武士は平安時代中期に誕生しました。その当時の鎧の形式が「大鎧」です。
武士というと刀で戦うというイメージですが、当初の武士のメインウェポンは弓でした。世界的なカテゴリでは武士は重装騎兵にあたります。当時の武士の戦い方は、至近距離で矢を放ち合う騎射戦でした。乗馬姿勢で矢を放ちやすいとともに敵の矢を防ぐことができる形式の甲冑として、大鎧が登場しました。
また、当時の上級武士は下級貴族でもあり、大鎧は当時の貴族文化の影響もm受けた洗練された貴族的な美しさを持つことも特徴です。

その特徴的なパーツとしては、両肩に装着されている身につける盾というべき大袖があります。大袖の役割は敵の矢から身を守ることです。騎馬武者は両手で弓を扱うために、両手が塞がっています。そのため、盾を手に持って身を守ることができません。そこで大袖を盾代わりにすることで身を守ったのです。
もっとも、打物戦が主流となり、大袖は攻撃の邪魔となったことから、大袖は縮小され省略されていきました。

鎧は大変豪華かつ華美なものであることから、武田信玄で有名な甲斐武田家の「楯無」のように、家宝として先祖代々受け継がれてきたものが多く、それを5月の虫干しのときなどに眺めるときに、昔の武士は実際に自分を守ってくれるものともに、自分と先祖との紐帯を感じていたのだろうと思います。そういった思いが、五月人形というようになっていったのでしょう。

兜飾り

兜飾りは兜のみの五月人形です。頭部が人体の中でもっとも重要な部分であると同時に、その人の個性をもっとも表現する部分であるという認識は、世界のどこでもかわりはありません。兜を五月人形の飾りとして用いるのは、この認識が昔の人も我々も同じだからでしょう。

兜は現在のヘルメットと同様の役割を果たす防具です。日本において兜が出現したのは古墳時代で、当初はヘルメットとして頭部を守る防具としての役割だけを担っていましたが、時代と共に、武将達の威厳を表現したり、個性を主張したりする役割をも担うようになりました。
大鎧を使用していた平安時代の戦い方は弓が中心だったので、弓矢による攻撃を防御するために後頭部に錣と呼ばれる板をぶら下げて後ろからの攻撃を防御していました。また、顔の横で折り返している部分を吹返といい、前から飛んで来た矢が顔にあたらないように防御する役割がありました。
そして、室町時代末期から江戸時代にかけて、動物の毛皮や貝や植物や紙などを張り付けたり、鉄などで様々な物を形作ったりして、鉢自体を様々な形にした変わり兜が登場します。この変わり兜に、さらに立物が施される場合もありました。戦国時代の下剋上の雰囲気や、南蛮文化の影響、武将自身の自己アピールなどの理由から、このような変わり兜が流行したと言われています。

そういった戦国武将の変わり兜をモチーフにした武将兜は、「戦国武将のような逞しい子になるように」と願を掛けする意味でも人気があります。
人気の一位は三日月の前立の伊達政宗。有名な愛の前立の直江兼続、赤い兜に鹿の角の真田幸村、三日月と日輪があしらわれている上杉謙信、歯朶のあしらわれた徳川家康、諏訪法性兜とよばれる武田信玄、それに豊臣秀吉に織田信長など。これらの兜は実際に見てみるとだれもが「見たことがある」と思うものなので、そういった意味で大人にとっても大変人気があります。

元々兜飾りはただ飾るためのものでしたが、最近はお子さんが実際に被ることのできる着用兜も登場しました。やはり、実際に被ってみたくなる/被らせてみたくなるものだからでしょう。小さな頃はぶかぶかだった兜が、成長に従ってサイズがフィットしていくようになるのを毎年写真に撮って楽しむという方が増えているようです。

武者人形

武者人形は男の子が甲冑をまとった人形です。鎧や兜は、伝統的な大鎧や、有名な武将の被っていた兜をイメージしたものが多いですが、武者人形は金太郎や鍾馗様などをモチーフとして作られたものが多いです。

しかし、鍾馗様も金太郎も今ではあまり馴染みがありませんので、ここで少し説明をしておきます。

鍾馗様とは中国の民間伝承に伝わる道教系の神様で、長い髭を蓄え、中国の官人の衣装を着て、剣を持ち、大きな目でにらみつけるポーズを取って描かれます。魔除けの効果があるとして、絵に描いて飾ったり、屋根の上に像を載せたりします。中国の端午の節句で厄除けとして鍾馗図を家に飾る風習が生まれ、それが日本に伝わりました。最古のものは平安時代で、室町時代には漢画の画題として普及、民衆の間では江戸時代末頃には関東では5月人形として、上方では魔除けとして屋根の上に置く風習が見られました。
魔除けや悪疫除けの神様であることから、子供を守るということにぴったりだということなのでしょう。

金太郎は坂田公時という平安時代の武士の幼少期の姿です。まさかりを肩にかついで熊に乗り、赤い前掛けをした姿の男の子で、神奈川県にある足柄山に住んでいました。
金時を含む源頼光に仕えていた4人の家来は「頼光四天王」と呼ばれました。源頼光の時代から100年後に出版された「今昔物語」にも登場しています。金時以外の三人の家来は実在が証明されているようですが、金時の実在を証明する資料は見つかっていません。
ではこの金太郎物語とは一体どういうものでしょうか。

昔々、足柄山に金太郎という男の子が住んでいました。
金太郎は元気のいい力の強い男の子です。森の動物と遊んだり相撲をしたりしていました。
ある日、金太郎は動物たちと隣の山に出かけました。大きな熊の背中にまたがり、斧を肩に背負います。
崖に来ると下を激流が流れています。金太郎は大きな木の前に立ち、力を込めて押し倒しました。木が傾き、大きな音とともに倒れ、川の上にかかりました。
すると後ろから声がします。そこには立派な武士とその家来がいました。その立派な武士が源頼光でした。金太郎は頼光の家来として取り立てられ、坂田金時という武士になり、大江山に住む酒呑童子を退治しその名前を天下に轟かせました。

江戸時代に浄瑠璃や歌舞伎を通して、坂田金時の幼少時代や出世の物語が脚色されて伝えられました。そして童謡の金太郎によって明治以降も有名な存在となりましたが、近年ではあまり有名でなくなったということもあり、牛若丸などの他の歴史上の有名な人物やおとぎ話の主人公もモチーフとされます。また、近年は金太郎や鍾馗様のような豪傑タイプではなく、もっとかわいらしさを追求したものが多くなりました。そのような人形は童人形ともいわれます。
現代では、あまりにも大掛かりで大きめの和風建築でないとしっくりこない鎧や、いかついイメージの兜と違って、かわいくて柔らかいイメージの童人形に人気があります。